創刊号は鉄筆で
ガリ版で原版作製
謄写版印刷です
シンボルマーク
明るい太陽と千葉の海の青を
象徴します。円形をベースに
円満と融和を表し、葛飾石油
KSをシンボル化しました。
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創刊号 左欄が創業21年目の「糧」創刊号の見出し部分です。「創業を振り返って」と題する社長の寄稿を全文ご紹介したいと思います。(以下)
社内報を発行することになりました。当社が昭和37年に有限会社として創立した記念すべき7月7日に合わせて第1回とし、今後は毎月発刊されることになります。今回は創刊号ですから、当時を振り返り、会社を創った基本的な考え方を述べてみたいと思います。 昭和37年当時といいますと、本社のある西船7丁目はまだ葛飾町と言っていました。周囲は一面の畑でよく晴れた朝夕は西の空に富士山がはっきりと見えたものです。
私は農家の三男坊でしたから朝早くから野良仕事を手伝いました。二人の兄は戦争で死にましたので、学校を卒業した頃は一人前の百姓になっていました。当時からこの地域は都会が近かったのでコメ作りは主でなく、主に野菜を作っていました。今のような副業的な収入はなく、いわゆる専業農家として野菜を市場に出荷して得る収入が唯一の生活の基礎だったわけですから、それだけで生計を立てるには大変苦労だったことを覚えています。
昭和37年私が丁度30歳の時に農業から石油販売業に180度と思われる転換をした訳ですが、私自身農業は好きですし当時事情が許され、もっと田舎のほうへ家族ぐるみで引越し出来たら農業を続けていたかもしれません。仕事が辛いから、或いは百姓が嫌で農業をやめ楽できれいな仕事をしたくて転業したのでは決してないのです。骨折り仕事で大変でしたが、物を生産する喜びがありましたし、何より人間が生存するためのもっとも大切な食物を世の中に供給しているという誇りがあったからです。今でもそうですが段々都市化が進みますと、それに反比例して農業の生産性は落ちてきます。第一に地価が高くなります。農業をするには土地はなくてはならない絶対に必要なもので、一般の職業からすれば生産原価の第一に考えなければならないものですが、いくら地価が高くなっても、農業ではそれは先祖から代々伝わったものとして、野菜を生産する必要経費、生産原価とは考えません。地価の高い安いに関係なく、できた品物に区別はありませんし、むしろ空気の良い田舎での作物のほうが上等な場合が多くなります。輸送手段が発達し、また生産技術が普及すればする程それは激しく都市近郊の農業を圧迫するようになります。
そこで私なりに、他に先駆けて機械化したり、いわゆる近代化、省力化をいろいろ考えた訳ですが、時代の流れは自分一人で変える事など出来る筈もなく、あるときの自分の生き方を根本から考え直してみようと考えました。農業というものは、人間が生きる為には絶対に必要な食物、食糧品を世の人々に供給していますし、それがなければ生きてはゆけません。農業はもっとも崇高な社会的使命を担っているのです。そこで、一歩見方を広くしてコメや野菜に代わってこの世の人間社会、産業を支えるものは何かを考えてみました。それは工場の機会を動かし、自動車を走らせ、会社、家庭を暖かくする石油だと気付いた訳です。
人間のエネルギー供給者が社会のエネルギー供給者になる。これが石油業を決意し、転業した私の唯一の理由です。今もこの考え方は変わっておりませんし、エネルギーを供給し、社会を発展させる原動力としての石油の将来についても、確信をもって自分の選んだ仕事としてまたこれからも進むべき道であると断言してゆくつもりです。
それから会社の顔としての社名については随分考えました。私の名前をとれば「大久保石油」「大和石油」先祖代々の私の家の屋号が新六と言いましたので「新六石油」「大新石油」「新和石油」といろいろありました。しかし、社長個人の名前を入れるとどうも社長個人の持ち物のような感じを受けます。私自身農業をしていて人間一人の力の限界の様なものもわかる気もするし、会社を興すからには自分なりに会社というものに定義づけをしなければ意味がありませんから、それを決めてから名前を考えることとし、会社とは決して個人の所有物ではなく、同じ目的を持った大勢の人が集まって出来るものであり、その人々の生活と幸せがその中から生まれるものだ。そしてその地域社会と一緒に発展すべきものである。そこで社名は、会社発祥の地「葛飾」という地名を採り入れ「葛飾石油」とした訳です。
葛飾の由来は古く万葉の歌人、山部赤人の歌にも歌われた由緒ある地名です。寅さんや矢切の渡しで有名になった柴又も同じ葛飾の一部です。皆さんもそういうゆかりのある「葛飾石油」の社名を誇りとして、毎日の仕事に励んでください。 以上 |