本来、私は大久保家の3男として生まれた。親が古来から長男に与える「和」の名を三男に付けたのも何かの宿命と思える。長男は戦死、次男は学徒動員で過労死と、戦争が原因で兄達が相ついで他界したのは、私が旧制中学校2年生の時だった。従って、3男の私が大久保家の「後継者」になった。父は私が2歳の時病死し、旧制中学校を卒業した18才の時に母が他界した。当然家業の農業を継ぐ事となり、約10年間試行錯誤して頑張った。しかし、昭和30年代から長距離輸送が盛んに成って、地価の安い土地で採れた生産物が、貨車やトラック等で消費地へ大量輸送されてきた。近郊野菜は品質が良くても、価格で太刀打ちできない窮地に立たされるようになった。これではいけない!!時流に押し流されてしまう。早期に対策を立て他に方向転換することをを模索した。「農は国の基なり」「鉄は国家なり」と古来の諺にもあり、鉄への関心も有ったが、鉄は困難だから、その鉄を作る基礎のエネルギーである石油にしようと決めた訳です。 |
みつお名言集に
深い感銘を
受けている |
昭和37年に開所した本社併設給油所の所在地は畑のど真ん中。当時、出光千葉出張所々長の矢野さんが「大久保さん、これだけの財産を使うなら、出光が他所でスタンドに最適な場所を探してあげます」と言われる位の辺鄙な場所。私鉄駅までの約1.5㎞余りの間に家は一軒も無く、晴れた日の朝夕は遥かかなたの富士山がくっきり見えた。矢野所長の好意を押し退けての新事業に込めた意気込みは強烈で、常識外の異常な短期間(50日間)で建設工事を完成し、開店させる程だった。地鎮祭当日はバケツをひっくり返すような大雨で、祭壇に盛り上げた砂も流れ出す始末。「雨降って地固まる」の諺で、天が私に世間の厳しさを示している…と!未知の世界に飛び込む決意と覚悟を固めました。 |
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束の間の50年間、記憶をたどれば幾山河を越え、苦悩の積み重ねでもあります。草創期、時流が大きく変革をしている中
で、私自身も一大転換をしました。中山競馬場前給油所の年商2千万円から、現在60億円の売り上げ実績を挙げるまでに充実
発展しました。 ”夢のようだ”としか言いようがない。勿論それは、多くの人々との関わりを頂く中で、ご指導と恩恵を戴い
た結果で得られた事です。特に創業期から累積された社員の努力に対し、今更ながら感謝しています。今後も之を土台として
、更に飛躍を期して頑張ることを誓うものです。 |